第10章 米の沼田喜三郎と小豆の高橋直治 ~ その1

                
◆内地米の評価
 「昨廿9年の実績で40万石にもなった当港輸入米は、過半が越中米でこれに越後米が続き、庄内米の順。さらに秋田・加賀・能登・越前・東海道・中国・九州などが続く。これまでの経験によると、品質は越後が最良で庄内が次。中国などにも優良品があるが、数量が少ないので品質を評するに至らない。だから、秋田米は乾燥を十分にし、等級を付けて桝量を一定にする必要がある。俗に厄といわれる腐敗を生じる5月下旬ころの変質が早く、しかも天候が戻れば他の米は品質が回復するのに、秋田米だけは変色したうえ搗減りの度合いが増すので、どうしても買入を躊躇する傾向がある」
 明治31年3月刊の会議所月報第4号に載った、秋田県庁からの照会に対する返事である。前年の4月25日、山の上町魁陽亭で開所式が開かれている。

◆最大の工業が精米
 米がとれないはずの北海道でも、“日本人だから”米の御飯が不可欠だった。この時期、本州からの主要移入品は米だった。米は玄米で輸送し、消費地で精米する。二宮金次郎を持出すまでも無く、石臼でついて白米にする作業は大変だった。内国植民地化途中の北海道では精米が当面する最大の工業だった。1913年の小樽工業生産額778万円のうち、精米が466万円で六割を占めていた、という統計数字がある。
 全道移入米の一手引受を目指した男が、空知管内沼田町にその名を残す沼田喜三郎だった。喜三郎が初代社長をした精米会社「共成」は、運河に近い堺町のロータリーに面した「小樽オルゴール堂」に変身し、現代に生き長らえている=写真1
 この堺町ロータリーは、国道側からの入船大通、手宮からの色内大通りが山の上線に変わり、臨港線側からも3本の道路が集まるから、数え方によって6本か7本もの道路が交差している。オルゴール堂の向かいがオタルナイ運上屋跡、運河にも近く小樽観光の始発点ともなっており、地元では「メルヘン交差点」の標識を立て観光スポットに仕立てた=写真2
 喜三郎は1838(天保5)年現在の富山県、越中国東砺波郡の大工兼業の百姓の子として生まれ、12歳から働きに出て、ようやく家に帰れて百姓になったら26歳にもなっていた。妻子を置き、単身で小樽にやってきた時は既に49歳だった。人生僅か50年の時代だから、とうに黄昏時に至っていたことになる。

小樽オルゴール堂 メルヘン交差点
写真1・堺町ロータリーの角にある
小樽オルゴール堂
写真2・堺町ロータリーの
メルヘン交差点


◆華麗な変身
 小樽に来た喜三郎は、鳴かず飛ばずの富山での生活からは考えられないような活動ぶりを見せた。時と場所を得た男の、華麗な変身ぶりが、当時の小樽の状況をよく物語ってくれる。
 小樽と高島の郡境だったオコバチ妙見川畔にあった水車は、冬は凍って夏は水枯れと能率が悪かった。大工気があった喜三郎がやったのは、川の水を水車の上からかけるだけ。それまでは流れに水車を浮かべ、流水の力で動かしていたのに比べ、力学的に見ても合理的だ。今様にいえば“発想の転換”。氏素性を問わず、本人の能力と努力にチャンスさえ加われば、だれにでも成功の可能性が当時の小樽にはいっぱいあった、良き時代だったのだろう。
                 
◆精米会社共成
 喜三郎の後を追って、同郷の京坂与三太郎がやって来る。初めは沼田の水車番からスタートし、経営にもタッチするようになる。2人で力を合わせ、奥沢村の勝納川沿いに八基の臼を並べた水車小屋から140基に増え、5年後の1891(明治24)年に資本金6万円の合資会社・共成を設立する。
 勝納川は流量が豊富なので、小樽の水源地とされてきた。明治41年に着工し、6年9か月かかって大正3年にようやく通水した奥沢水源池は、今なおその機能を持続している。勝納川上流をせき止めた貯水池から勝納川本流に流れ下る階段状の水路の景観は、現在も春の花見に秋の紅葉と市民の足を止めさせる=写真3・4

奥沢水源池 カスケード
写真3・大正3年9月通水した
奥沢水源池。貯水池から
勝納川へ流れ下る階段状水路。
写真4・奥沢水源池のカスケード。
今なお清流が春の花見、
秋のモミジに市民を誘う。

 朝里川畔に作った精米所に備えられた、五斗張りの杵を動かす直径三間の水車が当時日本最大といわれた。蒸気を動力にした稲穂精米所から、札幌の中心街にも進出し、資本金は15、30、75、100万円と次々に増資を重ね、東京以北随一の精米メーカーに成長した。明治三37年9月刊の会議所月報25号に載った共成株式会社の広告は、37年度決算報告だった=図1

決算報告
図1・決算報告


 佐々木静二専務、京坂与三太郎常任取締役のほか、沼田喜三郎、遠藤又兵衛、笠松千太郎が取締役。監査役が泉田二郎、長谷川直義。純益金が84,537円で、配当金は年3割とある。
                
◆歴代の共成社長
 小樽共成の歴代社長はそのまま小樽商人の系譜にもなりそう。初代は発起人代表をした沼田喜三郎。沼田村の水田は大正2年の大凶作で売却し、小樽で北海木材を設立。その後、名寄村郵便局長代理だった長男の家に住んだ。2代目の田口梅太郎は松前出身、石狩の村山漁業に奉公したあと小樽の船問屋に移り港の総代人もした。
 3代目井尻静蔵は鹿児島出身、石狩の鮭漁から小樽の倉庫業に転じた。4代目の佐々木静二は石川県鶴来町出身、函館の共同商会に奉公した。5代目京坂は大正2年の凶作で安い台湾米を直接移入したが、暴落による投売りで会社に大損失を与えて辞任した。
 6代目の長谷川直義は会津出身、炭礦鉄道、倉庫業もした。大正9年道銀頭取に就任したので社長を退任した。7代の野口小吉は岩手県出身の安田銀行員、小樽製氷飲料水などにも関係した。寿原英太郎が八代目、寿原創業者の弥平次の後継として、大正4年の財政整理からの消極経営を脱却するために、道内各地の造田化に対応し生産地精米に重点を置く。9代目の塚原由太郎は富山出身、樺太に進出、昭和10年の米統制で社長を退任している。昭和14、5年ころの共成本社の偉容だ=写真5

共成本社
写真5・昭和14、5年ごろの共成本社



◆開拓前期の商法
 共成は開拓前期、時間と地理的な隔たりによる価格差を利用しての商売で大きく儲けた。道民の必需品だった内地米を移入し、精米して売るだけ。豊凶で現地価格が上下するし、輸送ルートが整備されていないから生産地と消費地の価格差を大きかった=写真6

米俵の山
写真6・税関支署前に艀ではこばれた米俵の山


 開拓当初、米作は禁止されたが、根強い米志向から道産米の生産は年ごとに増加した。道産米100万石達成祝典が催されたのは大正10年だった。それが14年には早くも213万石に達する勢いだった=表1

道産米収穫高
M 3840T 15891011121314
収穫高2626618689119140128149170213
S 1234567891011121314
11025227624128810888322177155291332350343

表1・道産米収穫高(単位万石 小樽商工会議所)


 こうした道産米の成長は共成商法にマイナスに働く。生産地の農家が自前で精米し、流通させてしまうからだ。地理と時間差による商売がいわゆる開拓地商法と呼ばれる。開拓前期のこうした商売に、見切りを付けて転換した商人が生き残った。
                   
◆配当を重視
 北大の学生時代に共成社史を書いている琴坂守尚小樽多喜二祭実行委副委員長は「ふるさと富山の零細農民資本をかき集めた資本金だったから、蓄積より配当を重視せざるを得なかった」と、分析する。
 明治30年には41,000石を精米し、51万6,000円の売上を得て、東北以北最大の精米会社になっている。同45年に新築した木骨レンガ造り銅板ふきルネサンス様式の本社が、家具店の倉庫から変身した現在のオルゴール堂だ。野幌赤レンガを主体に自然石を補強と装飾に使い、建物の角を保護するコーナーストーン、窓枠部分を強くするフレームストーンなどが落ち着いた調和を見せる。この位置は色内通りの札幌寄り、東の端になり、西端は北海道鉄道博物館。農務省北海道事業管理局が設計した幌内鉄道手宮駅構内の日本最古の機関車庫で、昭和35年に国鉄の鉄道記念物に指定された赤レンガ造り。1つの通りの両端に北海道の郷愁を誘う赤レンガの建物が存在するという幸運さ=写真7

オルゴール堂
写真7・赤レンガ壁のオルゴール堂



◆地域開発に乗り出す
 「開祖の沼田喜三郎は明治26年当地方開墾の急務なるを悟り、断然精米業の小樽共成社長を辞し本村委託開墾株式会社を経営、粗衣粗食に甘んじ大自然と闘いながら、自ら鍬を振って移民を鼓舞激励し開墾事業に没頭した」─昭和13年に沼田村が刊行した『村民読本』の1節である。
 有利な栽培作物として亜麻を勧め29年に雨竜製線所を設立したのを始め、沼田市街と美深に製材工場、小樽に製油会社、中頓別に水力製材と、各地の実業界に貢献し、さらに沼田駅・市街道路・神社・寺・学校などの用地寄付など、公益事業への貢献も目覚ましいと褒めたたえる。
               
◆委託開墾株式会社
 精米から開墾へと、方向転換したきっかけは何だったんだろう。小樽に来る前に函館で開拓会社の開進社に入社して、函館大火に遭い木材を仕入れて巨利を得る様子を見ていたと、昭和29年刊の沼田町史にある。維新の元勲で太政大臣だった三条実美が、雨竜原野50,000町歩の貸与をうけて華族組合農場を始める。だが、リーダー実美の死亡が原因で明治26年に華族農場が解散した時、これはチャンスだと考えた。
 実美死亡後に華族組合に参加した東本願寺の現知上人大谷光瑩伯爵は、明治2年に19歳で来道し、本願寺道路を建設した体験を持つ浄土真宗の法主。檀家総代を通して大谷伯爵を説得し、雨竜本願寺農場・委託開墾株式会社を設立する。
                 
◆開墾委託会社
 全国的にも珍しい委託開墾会社は明治27年4月設立、本社を後志国小樽郡永井町に置く資本金10万円の有限会社だった。未開土地の貸下を受けた人から開墾事業の委託を受け、成功したら現金か成墾地を受取る仕組だった。後志国小樽郡稲穂町在住の沼田喜三郎ほか9名の発起人に対して、農商務大臣子爵榎本武揚が創立を認可したのが8月24日。
 沼田以外の9名は、石狩郡の井尻静蔵、小樽郡の田口梅太郎、京坂与三太郎、林長七の北海道勢4人に、富山県側が南島間作、橋本なつ、野村五右衞門の3人、石川県から佐々木静二、根尾兵蔵の2人が参加した。井尻と田口は小樽商業会議所創立議員であり、京坂は沼田を頼って小樽にやって来た同郷人。林は余市にあり国の重要文化財に指定された旧下ヨイチ運上家を経営していた、余市場所請負人だった漁業家。
 発足時の引受株数は、沼田と井尻が150、田口・南島が百、橋本・佐々木・京坂・林・根尾・野村の6人はいずれも50、1株につき証拠金2円を払い込む。大谷伯爵名義で貸下を受けた雨竜本願寺農場1,000万坪のうちの877万4,761坪を請負った。
                  
◆設立の主意
 創立委員沼田が書いた『設立の主意』は、「当初から起業の方法を確立せず、資家と小作雇夫が疎隔して資産労力の功を失っている。こうした従来の積弊を排し今後の模範たらん事を期して、専門老農をつけ適実な方法を採り、農事に練達した小作を精撰するといった至当な管理法で迅速に事業を完成させる」と述べている。
 開墾面積は1年150町歩、反当り5円の成功費を見込み、設立免許から満10年を会社存立期間と決めた。取締役3人で専務1人を互選して、社長と呼ぶ。社長以外は名誉職とし、ほかに支配人・書記などを雇う。
 移住小作人募集規則の主な内容は─。
 小作希望者は戸籍証明書を必要とし、永続して開墾に従事する気があると認めたら、小作契約を結ぶ。移住した年に限って5円から10円の補助金と農具・小屋掛け用品に種子を与える。1戸5町歩以内の未墾地を貸し、開墾年限は3年。その土地の地質の度合いに応じて1円から5円までの5等に区分した新墾成功料を支払ったうえ、3作目から小作料を徴収する。農事余暇における出稼ぎでも、会社の許可が必要─。こうした決まりに従わない者は耕作物を没収し、容赦なく退場させると、厳しい。10戸単位で組長候補を2人互選し、会社がどちらかを指名する。組長は会社からの伝達を速やかに伝え、組内を代表する ─ 。
              
◆開墾成功で土地付与
 翌27年に富山・石川両県から180戸、28年には200戸もの移住農家を受け入れる。会社事務所が農産物を一手に買って小樽市場で売り、住民の生活必需品も小樽港を経由した。社長が先頭に立った開墾は計画通りに進み、定款に沿って11年目に解散。開墾成功で付与された土地は幌新太刀別川を境に西側を大谷家に、東側の社有地は5町歩300~500円で分譲した。
 喜三郎が受け取った400町歩を今井デパート創立者の今井雄七に売った大正3年に、北竜村から分かれた上北竜村の戸長役場が設置され、4年後に幌加内村を分村している。上北竜では北竜村とあやまりを生じるからと、大正11年4月1日に道庁が沼田村と命名した。
 大谷家に提供した地区は北竜村に残り、社有地が上北竜村になった。喜三郎所有地が今の沼田市街になり、北竜市街の本願寺にあった事務所は沼田市街に移り、明治39年建設が始まった留萌線鉄道の駅が沼田市街にでき、沼田小学校・沼田巡査駐在所などが続けば、次は沼田村誕生になるのは当然だろう。昭和25年には「共成」の新字名も誕生している。
 沼田村誕生の翌年暮れ、92歳で大往生した喜三郎について《曇り後晴れの人生天気図だった》と、脇哲著『小樽豪商列伝』にある。



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