第9章 啄木と多喜二 ~ その3



◆近代合理主義のインテリ
 磯野は佐渡の両津生れ。中央大の前身東京法学院を卒業後、サラリーマンをしてから、明治30年に小樽にやってきて、2年後に早くも初の区議になった。統計居士と仇名され、政友会色内派のボスの地位を占めていた。会議所の初代副会頭をした渡辺兵四郎、寺田省帰と並ぶ小樽頑固爺三羽烏の1人などといった逸話が伝えられる。北陸人造肥料会社の設立にも関わったという行動から見ると、ユーモア味ある近代合理主義者のインテリだったのか。
 “ ── 空知川から水を引いて、江別、石狩に至るまでの蜒々20何里という大灌漑溝が竣成すれば、その分派線一帯にかけて何千町歩という美田が出来上がる。北海道の産米がそれで一躍鰻上がりに増えるのだった。村長を看板にし、関係大地主が役員になって「土功組合」を組織し、道庁から「補助金」や「低利資金」の融通を受ける。拓殖銀行は特別低利で「年賦償還貸付」をした。北海道拓殖のためだった。 ── その工事は「監獄部屋」に引受けさせる。土方を使えば、当り前1日3、4円分の労働を5、60銭でやる。出、頭が2重にも3重にもハネられた。大地主は只のような金で、その金の割合の何十倍もの造田が出来た ── ”と、多喜二は小説の中で、未開地開拓の仕組みを解説した。そして「造田さえされれば、低利資金ぐらいは小作料だけでドシドシ消却出来た」と書くが、これが当時もてはやされた“社会主義的リアリズム”だったのだろうか。
 道内の小作争議はこの農場に限らない。雨竜の蜂須賀農場は大きいだけあって、前後5回ほどの紛争が『蜂須賀の女たち』に記録されている。磯野農場は多喜二の小説のモデルになって、有名になったにすぎない。当時の北海道の課題は未開地原野の開拓。小樽の豪商といわれたような人たちは、本業が安定するとすぐ土地に手を出す傾向が特に目立っていた=表1

◎会社
  1. 開墾依託会社 小樽精米共成社長沼田喜三郎が、明治26年8月に資本金10万円で、華族組合雨竜農場からの大谷光宝伯爵名義貸下雨竜本願寺農場を10年間で開墾を請負う。400戸の小作を入れて、3,800町歩を開き、目的を果たして37年解散。井尻静蔵、田中梅太郎、笠松千太郎、京坂与三太郎、佐々木静三ら共成関係の小樽商人が参加した。
  2. 加越能開耕社 寿原猪之吉が中心に加賀出身の小樽商人が集まり明治26年4月に資本金5万円、株主110人で設立。恵庭市島松地区の原野270万坪の貸下地に、石川・富山・福井三県から小作191戸を入れて開墾。明治40年に開拓した土地を分配して解散。 ※1995年に富山県砺波郡薮波(現小矢部市)から、100年前に恵庭市に入植した先祖を偲んで一族が集合したとの記事が新聞に報じられた。
  3. 京佐賀農場 京坂与三太郎、佐々木清治、笠松千太郎の頭文字を合わせた合名会社。石狩郡当別むらに30戸を入れ畑120.76に。勇払郡厚真村の原野を41年買収、31戸を入れ、田畑に。
◎個人
  1. 京坂与三太郎、佐々木静三 26年に長沼原野200万坪の貸下出願
  2. 田中梅太郎 28年に馬追(現長沼町)原野19万坪
  3. 白鳥永作 20年に祝津(小樽市)9万坪
  4. 宮腰伊兵衛 28年に鷹栖村近文(現旭川市)89万7千坪
  5. 茨木与八郎 祝津、軽川(札幌市手稲区)、雄冬などで92町歩
  6. 金子元三郎 28年に幌向原野200万坪を5年成功期限で
  7. 石橋彦三郎 28年に角田村(現栗山町)73万8千坪、上川郡雨紛原野(現旭川市)
  8. 大河原勝治(米穀商) 29年に幌向原野45万坪
  9. 板谷宮吉 36年永山兵村の公有財産を買収、鍬下5年限り小作230戸を入れ、大正2年に宅地化も。43年狩太(現ニセコ町)農場を譲受け鍬下5年半で小作21戸入れ畑192町歩に
  10. 本間賢次郎 31年夕張郡由仁村に貸付地を得て6戸入れ畑と牧場に
  11. 早川両三 40年寿都郡黒松内町の未墾地に17戸を入れ、39年買った岩内郡前田村に12戸を入れた。留萌郡天登雁333町歩の貸付地を牧場に
  12. 藤山要吉 29年留萌原野300町歩に北陸から小作60戸を入れ、幌向原野耕地に小作10戸を入れ、40町歩開墾。留萌貸付地に鍬下3年で63戸を入れ、田畑、牧場に、植樹もした。
  13. 磯野進 下富良野に175町歩の田など193町歩の農場
  14. 稲積豊次郎 40年琴似兵村の荒蕪地450町歩を買入れ、防風林を造り、大正3年小作25戸を入れ125町歩を耕作、ほかは自作地に開放。北見・訓子府に690町歩を買入れて開墾。

表1・商人地主


◆商人が大地主に
 明治36年10月現在で、100町歩以上の土地所有者が小樽に27人もいた、という道庁記録がある。大正9年の全道の50町歩以上所有者調査書には、初代会頭の山田吉兵衛はじめ、寺田省帰、石橋彦三郎、西谷庄八、板谷順助、木村円吉ら六人の小樽商人が顔を並べる。
 『写真集小樽』付録4に、北海道海陸物産商人気投票番付がある。勧進元は小樽商業新報社で、雑穀と海産の両小樽同業組合が行司役だという。番付の番外、年寄が小樽米穀共成株式会社、三井物産小樽支店と藤山商店。この3つが別格だったことを示す=図1

図1・海陸物産商番附
図1・海陸物産商番附


図2・小樽商人の屋号
図2・小樽商人の屋号



 小樽商人の屋号が『小樽運河戦争始末』(小笠原克著、朝日新聞社86年刊)に手書きで載っている=図2。地主の荒木酒店の屋号が11なので、通称「11の山」と呼ばれていた入船の丘の上に立つ火の見櫓が写真12。左下が住吉停車場の跨線橋で、量徳学校の手前に量徳女子校がないので明治33年以前の写真だという。
火の見櫓
写真12・「十一の山」の上の火の見櫓



◆モデルになった磯野農場
 下富良野にあった磯野農場は193町歩のうち、175町歩が水田で、大正11年に1回目が起き、2回目の15年秋から翌昭和2年春に及んだ争議が小説のモデルになった。
 磯野農場は大正2年現在で小作人37人、収穫米200石、投資金額27,000円という数字が示されている。争議後の昭和10年に農地を小作に解放し閉鎖した。
 沼田町開祖の小樽共成社長、沼田喜三郎も商人地主の1人だ。寿原猪之吉は同じ加賀出身の小樽商人に呼び掛け、加越能開墾会社を明治26年に小樽に設立。資本金5万円を集め、千歳市島松の貸下地270万坪に、北陸地方の石川・富山・福井三県から小作191戸を入れた。この開拓は期限内に成功したので、40年に株主に土地を配分したうえ、会社を解散している。

◆共成関係者が目立つ
 長沼の未開地200万坪には、沼田の共成会社に関係者がからむ。5代目社長の京坂与三太郎と4代社長の佐々木静三がそれぞれ出願。馬追原野に19万坪の農場を開設した田口梅太郎も、共成の2代目社長である。京坂与三郎・笠松千太郎・佐々木清治の3人が合名会社京佐賀農場を設立し、当別に30戸、厚真に31戸の小作を入れた農場を経営した。
 秋田生れ、漁夫として余市の林家漁場に雇われていた白鳥永作は祝津に九万坪、幌向には金子元三郎と藤山要吉、大河原勝治の3人がそれぞれ開墾に着手している。第4代会頭藤山要吉は留萌原野300町歩を対象に北陸から小作60戸を入れた。
 醤油醸造業の石橋彦三郎が今は栗山町になっている旧角田村と上川の雨粉に、本間賢次郎が由仁村で貸付を受けて牧場を経営。茨木与八郎は札幌に近い軽川や祝津、雄冬などにも手を広げている。越後生れの米穀荒物商、早川両三は黒松内に未開地売り払いを受け、岩内の前田村では未耕地を買い受け、留萌の天登雁は貸付と、手法は違うが、いずれも広大な土地を手に入れたうえ、小作を入れるなどして大農場主になっている。

◆商人の開拓地進出
 白鳥永作は海陸産物商、金子元三郎は海陸産物の委託商、西谷庄八は海運・回漕業として、明治27年の北海道実業人名録に記載されている。しかし、当時の小樽では1人の商人がいろいろな業種を兼ね、時代に合った仕事を求め経営方針を柔軟に変えた。仕事の分担・業種分離が進んでいなかったというより、多業種兼業が開拓地経済の常道だったとの実情を物語る。
 小樽商人の内陸部の開拓地進出は明治25年ころから始まり、30年代に広がって大正期まで続く。《貧民を移さず、資本を導入する》との道庁の政策転換もあったが、開墾中は投資する一方で利益は出なくても、不動産を所有して社会的に評価される開拓に従事していることは、それだけでも商人としての信用が増す。さらに、土地を抵当にした銀行の融資が行われることによって、まだ生産物を得られていない未開地にも金融面からの価値が生じていた。



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