第9章 啄木と多喜二 ~ その2


多喜二

◆『不在地主』のモデル

 JR小樽駅前から海側へ。船見通りを運河までの坂道を降りて行く途中に、喫茶パブの海猫屋がある。交差点に面して駐車場になっている空き地の向こうに、赤レンガに緑の蔦が対照的な建物がいかにも今の小樽に似合っている=写真4

屋号が残る海猫屋 入り口の看板
写真4・屋号が残る海猫屋 写真5・入り口の看板

 店の入り口脇に掛かる看板に、「小林多喜二の小説『不在地主』のモデルとなった磯野商店が倉庫として建てたもので、当時、1階は佐渡味噌、2階にワラジやムシロ、3階には家財道具が格納されていた」といった説明がある=写真5
 2重レンガ積みの壁、針金で1枚ずつ瓦を固定した屋根など、北国の厳しい風雪と万一の地震対策をキチンとした、用意周到な典型的小樽商人の蔵だった。壁には屋号の司に7が描かれ、20世紀に入って間もない明治39年の建造。建主の磯野進は大正2年に第5代の小樽商業会議所会頭をしたのち、同14年に再び第9代の会頭を勤めた海陸産物商人だった。

◆多喜二のリアリズム
 当時流行した日本プロレタリア文学の旗手とされた多喜二は、小樽リアリズム文学の代表でもあり、駅背後の旭山展望台から本郷新が作った、本を開いた形のユニークな文学碑が小樽港を見下ろす。
 多喜二は秋田県大館市の北方、貧農の次男。小樽でパン屋をしていた伯父を頼り、40年暮れに一家そろって小樽・若竹町へ。この時に撮った写真が『ガイドブック小林多喜二と小樽』(小樽多喜二祭実行委員会編)に載っている=写真6

秋田から移住した多喜二の一家 伯父経営の三っ星パン屋
写真6・秋田から移住した多喜二の一家 写真7・伯父経営の三っ星パン屋

 当時4歳だった多喜二は前列右から2人目。若竹町は小樽水産学校が開校したばかりの漁師町だった。築港埋立てと防波堤建設工事が始まり、タコ部屋と呼ばれた土工の悲惨な労働状況を身近に見ていた。伯父のパン工場を手伝いながら、庁立小樽商業学校に通う。伯父経営のパン工場は当時としてはかなり手広くやっていたようだ。「帝国軍艦御用達、3つ星堂の菓子食パン」と大書した看板の前に、止まったトラックに集まる子供の中に多喜二もいるんだろうか=写真7

◆商人の子は庁商に
 地元では庁商と呼ばれていた北海道庁立の商業学校は、商人の子ならだれでもが憧れていた。予科2年、本科3年の5年間通学し、絵画グループの小羊画会で風景画を楽しんでいた=写真8。左手前が多喜二。女優岡田嘉子が、父が主筆をしていた北門新報に多喜二の絵の批評記事を書いたという。大正9年9月9日の9続きの日に、庁商2階廊下を会場に催された生徒展覧会場での姿が写真9。この翌年に卒業し、さらに小樽高商に進学する。この高商の1級下に伊藤整がいた。

庁商の小羊賀画会 庁商時代の多喜二
写真8・絵を楽しんだ庁商の小羊賀画会。
左手前が多喜二
写真9・庁商時代の多喜二

 多喜二は小樽高商を出て、拓銀小樽支店に勤めるホワイトカラーになった。戦前の無産運動と呼ばれた労働争議が小樽で起きたのは、経済の中心地に労働者が集まったから当然だろう。大正14年の海員組合の争議では、入港した船の船員がカンパした米俵が争議団本部前に山と積まれた=写真10
 『不在地主』は(1929・9・29)の日付で、小説を締め括っている。「殖民地に於ける資本主義侵入史の1頁である」と末尾にある代表作の『蟹工船』は、同じ年の昭和4年3月の作品。多喜二は小樽合同労組に出入し、『不在地主』を書いたことで拓銀はクビになり、昭和5(1930)年に東京へ。杉並区馬橋の自宅で僅かな息抜きの場を持った=写真11

海員組合争議団本部前 杉並区の自宅
写真10・大正14年の
海員組合争議団本部前
入港船からのカンパ
米俵が山積みされた
写真11・杉並区の自宅で
(昭和6年)

 小説の参考資料にした組合側の街頭ビラなどが北大北方資料室に残る。「多喜二や伊藤整などの昭和初期の文章を引用しても、時代のズレを感じさせない」と、『ガイドブック 多喜二と小樽』にある。三浦綾子作の多喜二を扱った演劇『母』も多喜二祭で自主上演した。



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