第9章 啄木と多喜二 ~ その1


啄木

◆小樽にだけない啄木像

 1907(明治40)年から翌年にかけ、函館・札幌・小樽・釧路を駆け抜けた21歳の石川啄木ぐらい不思議な人物はいない。啄木については国際学会が組織されているほどの世界的文化人だから、それぞれの町に足跡を記念するものが残っていて当然。4市とも歌碑はいくつか有りながら、像となるとなぜか小樽にだけない。函館は大森浜、札幌の大通公園、旧釧路川口のムー対岸にある旧釧路新聞社・港文館脇と、それぞれゆかりの地に泰然と啄木像が立つなかで、小樽だけがはどうして冷たいのか。その理由はなんなのか。
 小樽市内に啄木歌碑は2つある。1951(昭和26)年に花園5丁目の小樽公園に建った歌碑は「こころよく我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ」と刻む。
 啄木と交流があった高田紅果が小樽啄木会を結成。歌碑建立計画を立て、市民投票を提案した結果は「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の声の荒さよ」が1位だった。ところが、建立の助成金を求められた小樽市が“この歌では、将来にわたって市民感情に抵抗がある”と申し入れたので、変更されたといういきさつが伝えられる。
                 
◆かなしきは ─
 もう1つが1980年、相生3丁目の水天宮境内に誕生した歌碑。こちらには「かなしきは:」を刻み、「小樽の印象を追想した碑の歌には、厳寒の新天地に夢と希望を抱き、たくましく働いた人々の哀歓が端的に表れている。商都小樽の発展に活躍した先人の労苦をしのび撰文する」との趣旨を裏面に書いている=写真1

水天宮の啄木歌碑 小樽中央停車場
写真1・水天宮の啄木歌碑 写真2・啄木が降りた小樽中央停車場

 啄木の小樽滞在は前後3回、通算して136日になる。最初は18歳だった1904(明治37)年7月10日からの16日間で、函館から船に乗ってやって来た。姉とら子の夫、小樽中央駅長をしていた山本千三郎宅に泊まった。次が40年9月13日、函館から汽車で小樽中央停車場=写真2=に降り立った。この年の秋から翌年正月にかけての小樽日報記者時代の114日間。3度目が翌41年4月14日からの6日間。この時も山本宅に泊まっている。
 啄木が故郷の岩手県北岩手郡渋民村の小学校代用教員をやめ、妻と長女を実家に託し、『石をもて追わるるごとく ふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし』と、函館に渡ったのが1907年5月5日だった。岩手から投稿していた函館の文芸団体『苜蓿(ぼくしゅく)社』同人を頼った。

◆函館商業会議所の書記に
 函館で得た職がまず函館商業会議所の書記だった。日給60銭の臨時雇いに始まり、すぐに月給12円の弥生小学校から、15円の函館毎日新聞の遊軍記者に移る。青柳町の借家に家族を呼び寄せて始めた一家団欒の生活も、8月25日の大火で勤め先が焼けてオジャン。9月13日、母と妻子を残し北門新報校正係りとして札幌へ。在札時代は僅か14日に過ぎない。この時の下宿先が北7西4。生誕90年祭の昭和51年に、札幌市北区役所が『石川啄木の下宿跡』との史跡案内板を北7条郵便局前に建てている。
 啄木一族の墓は函館市住吉町の共同墓地、立待岬にあることは有名。将棋の駒に似た墓石が樺太国境標石をかたどるのも、なにか小樽との因縁を感じさせる。日露戦争の結果、南北に分かれた国境線を示すため、南方は日本皇室の菊花紋章、北方にロシア皇帝の双頭鷲章を浮彫りした。
 啄木の妹の夫でパトロン役をした宮崎郁雨が「樺太という1つの島が人間の意欲のままに南北に2分され、それぞれが全然別個のものとして取扱われる不合理を強引に合理化するための手立に使用された、この一体両面の標石の運命的な存在」が、啄木独自の一元二面哲学を反映している、と墓石の形の理由を説明している。

◆小樽商業会議所落成式に出席する
 啄木は小樽日報記者として、1907年10月9日の小樽商業会議所新築落成式に出席している。「社を代表し、何となく面白い」といった青年らしい気負いもあって、羽織と袴を姉の夫山本駅長から借り、式場で引き出物に出た酒1本を社の庶務へ、折詰弁当は同僚の野口雨情と分けあって食べた、と啄木日記に書いている。
 月給25円の小樽日報勤めにも慣れ、家族を呼び寄せ花園町畑14番地の借家に落ち付いたのに、師走に入ってここもやめる。翌41年元日の日記は「職を失うて、屠蘇1合買う余裕も無いといふ、すこぶる正月らしくない有様で迎へようとは、いかな唐変木の編んだ運命記に書かれてあった事やら」と呆然自失の体 ─。
 小樽日報社長の白石義郎が救いの神になり、社長を兼任する釧路新聞に移ることになって、1月21日夜、開通直後の狩勝トンネルを通って釧路に着く。『さいはての駅に下りたち雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき』が、釧路76日の始まりだった。
 白石義郎が小樽と釧路と、2つの地元新聞の社長を兼任していたことは、日本海側の小樽と太平洋に面した釧路が政治・経済だけでなく、文化の面からも当時かなり重要な相関関係を持っていた事情を物語る。だから、歌人のはずの啄木なのに、「釧路町民は小樽人の如く熱心ならず」と、熱心に『釧路築港問題』を紙面で論じたりしている。
 戦前に知人岬米町公園にできた『しらしらと ─』の歌碑に始まり、コミュニティーづくりに役立つと釧路市内の啄木歌碑が最近になってぐんと増え出した。釧路観光協会発行の最新パンフレットが、釧路市内各地に新設された23基もの歌碑の内容を誇らしげに紹介しており、まさに壮観としか言いようがない。
                 
◆啄木の小樽観
  ── この5月初め、年若く身は痩せて心の儘に風と去る漂遊の児であれば、一攫千金を夢みて来たのではない。北海の天地に充満する自由の空気を呼吸せむが為に、津軽の海を越えた。札幌に1つ足りないものがある。生命の続く限りの男らしい活動である。小樽に来て初めて真に新開地的な、真に植民的精神の溢るる男らしい活動を見た。男らしい活動が風を起こす。その風が自由の空気である。 ── 内地の大都会の人は落し物でも探す様に眼をキョロつかせて、せせこましく歩く。小樽の人は然うでない。路上の落し物を拾ふよりはモット大きい物を拾はうとする。四辺の風物に圧せられるには、余りに反発心の強い活動力をもって居る。されば小樽の人は歩くのでない、突貫する。朝から晩まで突貫する小樽人ほど、恐るべきものはない。手取早く唯男らしい活動の都府とだけ呼ぶ ──。
 『初めて見たる小樽』と題する評論の一部だ。11月15日発刊の小樽日報初刷に載った啄木の初原稿だった。この文章は“人も言うように日本一の悪道路だが、善悪に拘らず日本一の名が付くのが既に男らしい事”と、やや皮肉めいた言い方のあとに、次のように続く。ー道路が整備されて市街が整頓すると、階級とか習慣とかいう死法則まで整頓するのかと思えば、10足20足の下駄を余計に買うとしても、未来永劫小樽の道路が日本一であって貰いたい ─。
 海沿いの埋立てた低湿地なので、啄木が日本一と折り紙を付けた小樽の悪路の解消工事は大変だった。大石を並べたり、木レンガを敷くなどと、いろいろ工夫した。銀行街だった色内町の道路改良工事は深く掘ったところに切り石を並べた。その現場が写真3
 20世紀初頭の明治時代に、早くも“物質と精神性の問題”をやさしく説いた啄木思想の近代性が窺われる。こうした逆説的な表現が戦後の小樽市民に到底理解出来ないものになっていた理由は、明治大正期の自信を失っていたからなのか。“かなしきは”の歌詞をバイタリティー溢れる小樽商人への賛辞、と受け取れなかったような市当局の強直化した姿勢が、あの10年戦争といわれた運河戦争を長引かせた遠因の1つになったとも言えそうだ。

色内町の道路改良工事現場
写真3・切り石を並べて行く色内町の道路改良工事現場





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