第6章 野口と寿原 ~ その2


◆北の誉は野口の誉
 吉次郎のツキは、2代目喜一郎、3代目誠一郎と続き、今は4代目。喜一郎相談役が題字を書く『北海観光株式会社小史ー旧北海ホテル50年の足跡』が、昭和44年暮れに発行されている。堀末治、寿原九郎が監査役に顔を並べている。
 堀末治は明治19年に岩内で生まれた道産子。39年の小樽中学一期生で丸ヨ入店、札幌丸ヨ西尾の支配人から大正13年の合同酒精設立で専務、社長、会長をやり、戦後参議院議員を3期18年勤めた。
 米騒動が全国に広がった大正7年に、純様式の北海屋ホテルが小樽区に誕生した=写真9。芸者が600人以上いたという小樽だから、モダンなホテルは繁盛する筈 ─ と建てたのが清涼飲料水サイダーの製造販売人。当時、力のシンボルだった軍艦を沈めるのは水雷艇だけと、サイダーの名に水雷艇と名付けた。時間制の寝台、茶代心付けを辞退、室内電話器を備える ─ 建設費が13万円もかかったのに、翌年に旭川にもホテルを建てようとして、たちまち資金が行き詰まる。

創業時の北海ホテル
写真9・創業時の北海ホテル


 出資金10万円の匿名組合から30万円の株式会社に組織変えする時、野口喜一郎が最大の1,000株、山本厚三500株のほか、清七・六郎・忠治の今井一族が400株ずつ引受けた。北海道初のホテルは木造3階建て。9年の恐慌時に今井一族は手を引き、12年に18万円減資で赤字を消す。
 借金経営からの脱却を図り、開業したカフェーモンパリが当たってドル箱になる ─ など話題は豊富だ。北海ホテルは昭和19年4月に陸軍偕行社に接収され、戦後は占領米軍に20年10月接収、21年5月解除されているのは、それだけ建物が立派だった証拠だろう。

◆余市から銀鱗荘を移す
 北海ホテル支配人専務の盛田穣が余市から移設したのが、平磯岬上に今なお誇らし気に雄姿を見せる銀鱗荘だ。小樽高商8回卒業生で小樽新聞社広告部長のあと、浪人中に伴校長の紹介で野口喜一郎の秘書になり、昭和8年から24年まで支配人をした。卸売物価が21%も上昇した昭和12年に計画し、インフレ傾向に便乗した形で翌年から1年がかりで解体、海上輸送、山上に運び上げ、復元作業をした=写真10
 余市銀行を創設したニシン場の親方、猪股安造が明治六年に自宅用に建てた。盛田は小樽偕楽園・望海楼と命名しようとしたが、ときの石黒道長官が銀鱗荘と選名したという。開業5年後には早くも戦火が迫り、帝国陸軍に接収されて高射砲陣地になった。現在は宿泊部を新築、高級ホテルの雰囲気が漂っている=写真11

昭和13年に移設中の銀鱗荘 平磯岬上に立つ今の銀鱗荘
写真10・昭和13年に
移設中の銀鱗荘
写真11・平磯岬上に立つ
今の銀鱗荘


◆大型レジャーブーム
 北海ホテルが銀鱗荘を移設したころの小樽は、大型レジャーランドブームに見舞われていた。昭和8年に祝津の先、オタモイ海岸の崖上に竜宮閣が建設された=写真12。高い崖に太い柱を建て、その上に3階建ての御殿を置くという奇抜さだった。オタモイ海岸は海水浴客でも賑わい、竜宮閣にあい対する岩の上には小さな鳥居まで設けられ、大型レジャーランドのはしり、とでも言いたくなる程だった=写真13

竜宮閣 オタモイ海岸(右上が竜宮閣)
写真12・オタモイ海岸の崖上に
あった竜宮閣(昭和8年当時)
写真13・海水浴客でにぎわう
オタモイ海岸(右上が竜宮閣)

 オタモイは市街から少し離れており、当時はバスぐらいしか足が無かった。竜宮閣に付属する弁天閣は一切釘を使わず木材を組み立てたというのが売り物の茶店、つまり日帰り客用の食堂になっていた=写真14。ところが戦火が迫って来れば遊びどころでない。戦後も暫くは食うや食わずの生活が続いている内に、本体旅館部分の竜宮閣が27年に焼失してしまう。人が来なければバス路線も廃止される。

付属茶店の弁天閣
写真14・付属茶店の弁天閣


 荒れ果てた弁天閣の建物が、海岸の崖から転げ落ちそうになっている様子を見た記憶がある。その時、天井に描かれたはめ絵など、こんな豪華な建築物がなぜここに残っているのか。何か活用できないのか、と案内人に尋ねたら、返事は「どうしようもないんだ」だった。
 そのまま放置されていた弁天閣は、53年に危険だと解体された。現在は近くまで宅地化が進んでいるが、庶民の観光地からは遠い存在になっている。
                        
◆旧青山別邸
 現在の祝津観光の目玉は旧青山別邸だろう。祝津マリーナの山側、「日本海を見下ろす北の美術豪邸」がキャッチフレーズの観光施設に生まれ変わった市指定歴史的建造物=写真15。祝津ニシン場の3大網元が茨木、白鳥、青山。大正期の青山漁場は地元のほか、雄冬、豊井などで合計10ケ統半だったと言う。留吉、政吉の2代でためた財力をもとに、3代目が山形県酒田市の本間家邸宅を手本に6年かけて建てた。4代目が寄付した漁家住宅は北海道開拓の村に移され、母屋、網倉、米倉など7棟が立ち並んでいる=写真16

祝津の青山別邸 道開拓村の青山漁場
写真15・祝津の青山別邸 写真16・道開拓村の青山漁場


◆個人住宅がホテルになった和光荘
 潮見台の丘上の和光荘は「北の誉は野口の誉」と持てはやされた喜一郎設計の大正建築。「大正11年(1922年)建築、木造4階建1部鉄筋コンクリート造 天皇・皇后両陛下が昭和29年8月にご来道の際、小樽での宿所となった由緒ある建物である」との小樽市の看板が立つ。
 個人住宅だった和光荘を野口商店が商号変更した和光産業の手で開業したのが戦後間もない23年4月。その後、25年になって北海ホテルが買収、特殊な高級客専門の宿舎とした。31年に北の誉が買ったが、赤字が続くので41年に廃業した。8月18日の午後6時過ぎ、小雨降る中で到着した天皇の姿が北海観光小史に載っている=写真17。薄暗くなっていたので無断でフラッシュをたいたため、侍従に小言を言われたとの和光荘支配人の話が付いている。

和光荘にお着きの天皇陛下
写真17・和光荘にお着きの天皇陛下


 北の誉酒造の2代目社長喜一郎が、建築家の佐立忠雄のアドバイスを受けながら設計。京都や金沢から宮大工を集め、7年もかけて建てた。3階に突き出した洋室、白塗りの手すりや窓が周囲の緑と対照的で、大正期らしいロマンチックな洋館だという=写真18。天皇が宿泊した和室の落ち着いた朱壁は加賀藩の専有だったとか。広い仏間は檜材を使っている=写真19

和光荘正面 仏間
写真18・和光荘正面 写真19・仏間

 和光荘が立つ潮見台の丘を下り、勝納川を渡った対岸を上流に行くと北の誉工場になる。丸ヨ野口商店の事務所の屋根越しに、和光荘の上部が見えた=写真20
 喜一郎の次男で叔父吉三郎の養子になった、野口正二郎の葬儀が平成6年9月に和光荘で催された。正二郎は1957年合同酒精の取締役になり、67年から21年間にわたって社長を勤めた。

丸ヨ野口
写真20・丸ヨ野口の屋根越しに
和光荘が見える




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