第6章 野口と寿原 ~ その1


◆店祖野口吉次郎
 野口信夫秀映社長から借りた『店祖野口吉次郎の生涯』(平成2年刊)をじっくりと読んでいるうちに、移住事情などに同時代の小樽商人と何か共通したものがありそうな気がした。以下は関正燈著、野口礼二発行の同書をもとにした1人の小樽商人像。
 1856(安政3)年加賀国河北郡三日市村(現在は金沢市三日市町)の農家西川善兵衛の四男に生まれる。当時の北陸地方では貧乏人の子沢山の場合、養子に出されるのが普通だった。とはいえ、4回も貰われてまた戻るのは珍しかったという。それほど気性が激しかったことを物語ると言えよう。
 15歳で加賀の豪商銭屋五兵衛ら北前船の根拠地だった、石川郡大野港の醤油屋に奉公する。北海道への縁と後の醤油醸造が初めての奉公先で決まってしまう。ここでも、なにやら運命的なものを感じる。
 6年間の奉公の後、隣村の醤油屋の養子になるが、すぐに飛び出す。明治14年、26歳で金沢に醤油小売店を構え、再婚者同士で所帯を持つ。そして死に水を採ってくれるなら、という条件で元金沢藩士出身の野口つるの養子になる。
 こうして100円あれば庭付の家が買えた、という時代の500円を手に入れた吉次郎は、自分の商売をしようと蔵を建て、醤油を仕込んで一儲けを図るが、見事失敗する。挽回策に、あわてて手を出した酒造でも失敗を重ねる。養家の財産をすっかり使い果たした上に、借金だけが残った。
                  
◆若気の至り
 “図に乗った、若気の至り”とばかりはいえまい。松方緊縮財政のあおりを食ったのだ。14年に大蔵卿になった松方正義は、西南戦争の軍費調達で膨れ上がった国家財政の危機を乗り切るため、官業払下げで政府財政のスリム化を図ると同時に紙幣整理を強行した。
 極端なデフレ政策のあおりで激しい景気後退となり、全国の商人は青息吐息。金沢では坪2円もした土地が17銭にまで落ち込んでも、買い手がいなかったといわれるほど極端に物価が下落したのだから、仕込んだ醤油が原価でも売れず大損するのも当然だろう。
 小樽でも、本州向けのニシン粕は14年春の値段が4年後に半分近くにまで下落した=表1。「時代の流れを見る目と同時に自分の力以上のことは絶対やらない」といった、後の野口流経営哲学はこの時の辛い体験がもたらした貴重な教訓だった。

ニシン粕の値動き
表1・ニシン粕の値動き(百石当たり円、小樽市史)


 「これといった目安も立たないので、百姓に戻ろうか」と生家の兄に相談したら、「耕す土地も無いくせに何をいうか。松前へでも行ってひと働きしたら」と突き放される。即答もできかねて、その場は黙って帰る。暫くして「あれからなんとか商売をといろいろやってみたが、だれも聞いてくれない。作男に雇ってくれといっても家族持ちでは駄目だし、とうとう松前行きを決めた。自分の身が立ち次第、家族を呼ぶからそれまで預かって欲しい」と、兄にもちかける。
 養母は生家。妻は長男と一緒に実家に預けて、長女を養子に出して、ひとり身となって小樽行きの船が出る伏木港に向けて出発する。ところが風待ち中の宿に、義兄がやって来て押し問答の末、妻と長男を預からないといって、宿に置いて帰ってしまう。自宅に戻った義兄はその夜に急死する、という悲劇が起こった。「今となればどちらでも良いことだが、かまどを覆したときはよく起きそうなこと」との記述がある。
                  
◆3年無給
 親類からも総スカンを食ってやって来た小樽は、明治19年7月、住吉神社祭礼の翌日だった。
 1688(元禄元)年創建という住吉神社は最初、山ノ上町にあった厳島神社だったが、14年の大火後に国道五号線沿いの現在地に移ったばかりだった。海の神様として港小樽最大の祭りが続く。写真1は32年ころの神社正面。石製の大鳥居は地元の商人たちが寄進した、昭和9年に建てた社務所と本殿が地下道で繋がるという珍しい構造になっている。

明治32年ごろの住吉神社
写真1・明治32年ごろの住吉神社


 吉次郎は既に31歳になっていた。故郷からの船中で会った利尻の漁場親方に紹介された人に頼み、落ち着き先を決めてようやく古着の行商を始める。親子3人6畳1間の長屋、戸がないので拾ってきた筵を入口に垂らしただけで冬越しに入る。
 当時の小樽では秋になると出稼ぎ人たちは故郷に帰ってしまい、冬の仕事は石炭運びの人夫だけになる。艀から石炭を本船に担ぎ揚げる、浜で一番危険な重労働だった。艀と陸の間に2枚の歩み板を渡すと、往復の通路になる。90キロの俵を左右に1つづつ天秤で担ぎ、腰で調子を取りながら、重さで下にたわむ板の上を早足で渡る=写真2。ガントリークレーンなど無い時代だから、船荷はすべて人間の肩で運んだ=写真3

2枚の歩み板 荷は人間の肩で運ぶ
写真2・2枚の歩み板が
陸との往復通路
写真3・荷は人間の肩で運ぶ

 体力的にも先が見えていた時、醤油醸造に心を動かしていた色内町の呉服商石橋彦三郎に出会う。「人との出会いが財産」という言い方がピッタリ。
 新事業への資本投下は3年経たないと現金にならないから、給金の出どこがないよと初めに念を押される。「親子3人食べさせて頂ければ結構です」と答え、以後足掛け4年、丸3年の無給生活を辛抱した揚句、「醤油の事は一切任す。100円以上の支出だけは相談してくれ」と主人から申し渡される。始めの約束通りに過ぎない、との考え方もあるが、現代感覚からすれば不合理極まりない酷い話だが、当時としては普通だったそうだ。

◆江州商人根性を学ぶ
 石橋から江州商人の合理精神を学ぶ事によって、以後の小樽商人吉次郎が生まれる。住込み生活から独り立ちして店を構えたのが明治23年。独立から自らの酒造開始までの10年が正念場になった。
 石橋からの独立に伴い野口商店に移った人の出身地は加賀十二、江州三。しかも3兄弟1、2兄弟2と縁戚関係も濃密。言語・習慣が違う他国人は使いずらい、と店内を身内と同郷人で固める当時の状況をよく物語るエピソードだ。
 小樽での醤油醸造は石橋が先頭を切った。続いて18年から始めた高橋直治は33年に早くも廃業し、板谷宮吉、早川両三、北川誠一らが参入。32年で6醸造所が年間6,989石を生産していた。
 主人の石橋彦三郎は典型的な江州商人だった。14歳の時、同じ彦根出身の大阪の米穀商に奉公し、米の買い付けに出かけた秋田で、安い公債を買い集めている。酒田で年2分の金利が秋田で4分5厘もしたため、公債を抱えていた士族が現金化を急いだ結果、大阪で57~8円もした額面50円の公債が秋田では32~3円で買えた。秋田と大阪の間を運ぶだけで紙切れ1枚が20円の儲けになる。買い集めた国債を詰め込んだ柳行李を背負って、北前船に乗って大阪に戻った。
 わずか19歳の若僧が20,000円で秋田県士族の国債を買い占めたと聞いて、時の秋田県令島義勇が彦三郎を呼び出しその壮挙を褒めたという。この島は開拓使判官として札幌本府建設を担当、長官と衝突して4か月で辞任したという人物で、大きな銅像が今でも札幌市役所1階ロビーから大通公園を眺めている。

◆植民地商法に限界
 22歳の彦三郎がやって来た明治11年の小樽は、人家は1,000戸ほどで鉄道もなかった。勝納川口が入港船の停泊地になり、上流の水源地一帯が伐木禁止とされた御留山だったから、水量が多くて人家も集まっていた。12年9月14日の勝納川氾濫は、河口付近の遊廓金曇町辺に大被害を与えた=写真4

勝納川氾濫
写真4・明治12年9月14日の勝納川氾濫
川口付近の金曇町は遊廓


 小樽草分けの先住民族アイヌの居住地住初町に開拓使出張所の官舎ができたのが14年。住吉神社裏手の住之江町は16年と、街が出来かかっていた時代だった。呉服・荒物から始め、海産物卸からニシン場経営にも手を出した。明治20年代後半になると、小樽商業界は1つの転換期を迎えている。松前城下から引越してきた近江商人らが牛耳っていた呉服・太物・荒物の分野に本州大手商社が進出し、それまでの地域差を利用した“濡れ手に粟”式の植民地商法に限界が見えてきた。
 時代の流れに敏感な石橋は、色内の呉服店はたたんで奥沢に蔵を建てて醤油醸造業に専念する。野田のキッコーマン、上州のキッコーショウユと並ぶ日本の醤油御三家の1つに数えられるに至る。石橋が醤油、野口は酒、それを売るのが野口吉次郎商店と、住み分けを明瞭にする。丸ヨ石橋商店は年産9,000石、東北北海道随一の醤油醸造元として小樽有数の大店になっていた。

◆旭川へ進出
 明治30年の旭川への第7師団創設が1つのきっかけになる。32年10月に上川郡雨粉に150円で5町歩の農地を買って丸ヨ農場を開設。40年には酒造工場を造り、野口商店の旭川支店が野口合資会社になる。資本金24,000円は吉次郎、西尾長次郎、岡田重次郎、西竹吉の4人が6,000円づつ平等に出資した。45年に2,304石を造り、北の誉、北の一、北鎮、酔自慢、天春などの銘柄を使い分けた。
 大正10年の4,000石余は道内148家の5位。昭和11年に資本金70万円、岡田重次郎社長の丸ヨ岡田商店に衣変えした。戦後は卸が岡田商店、生産は旭川北の誉と分離、42年に北の誉3社が合併し1本化した。
 岡田重次郎は明治25年に石川県から来道し、小樽の石橋商店で吉次郎の下で働く。旭川一の酒造家となり、旭川商工会議所会頭、北海道酒造組合連合会長を勤めた、同市の開拓功労者。昭和25年76歳で死亡。

◆商圏拡大に便乗
 現在はJR小樽駅前を中心にした稲穂町周辺が1番の繁華街と言って良いだろう。第4代道長官北垣国道が同僚だった榎本武揚と共同で払下げをうけたころは、森林丘陵地帯だった。駅裏の高台に立つ竜宮神社は明治9年創建、イナウが捧げられた先住民族アイヌの霊地に祭られた。稲穂の町名由来でもある=写真5

稲穂の高台に建つ龍宮神社
写真5・稲穂の高台に建つ龍宮神社


 共有地支配人寺田省帰が合資会社「北辰社」を造って、原野の宅地化を計画したのが25年。今の国道から山側の斜面に、小樽産の軟石を使い階段状に土留めを造り住宅地にしたのが富岡町。市外の商人や政界人らが造成分譲地に洒落た家を建てた。国道の海側が稲穂町、武揚の雅号梁川と国道の静屋を付けた中通りが残る。
 明治36年の小樽駅開業で、函館の商圏だった黒松内周辺までが小樽商圏に移り、米・呉服・雑貨類を小樽から出すようになる。2年後の南樽駅開設によって函館本線が全線開通、小樽商圏の奥地拡大に直結する。こんな時代に吉次郎は独立し、店を張った稲穂の湿地が半年後に小樽中央駅の駅前になる。
 勝納川口にあった船着き場は野口商店前通りの先に移り、駅前からスタートする市街地形成がまちずくりに直結する時代の流れにうまく乗る。活動写真の常設館「電気館」が、稲穂町に建設されたのが大正3年。梁川通りは電気館通りと呼ばれて市内随一の繁華街に生まれ変わり、帝国海軍の軍艦が寄港した時には歓迎の軍艦旗が道路一杯に広がった=写真6

電気館通
写真6・稲穂町に活動写真の常設「電気館」が
大正3年に建ち、梁川通りが電気館通と呼ばれた。
帝国海軍の寄港時には軍艦旗がひるがえった。


 札幌の今井呉服店は丸井さんと広く呼ばれ、地場資本のデパートとして気を吐いている。一業に徹し、謙虚、崇仏、政争にかかわらない、といった社風が共通していたせいもあって、野口商店も丸ヨさんと小樽市民に呼ばれ親しまれた。今井呉服店の小樽支店は稲穂町で明治末に改装し、デパート色を濃くしていた。写真7は洋物雑貨を扱い、洋服調達が看板だったころの今井呉服店。
 後にデパートになる、従業員17人の大国屋が富山県から稲穂町に進出して開業した、大正7年には完全に歓楽街は稲穂に移っていた=写真8

丸井今井呉服店 大黒屋デパート開業
写真7・明治末に改装して
デパート色をました
丸井今井呉服店 2階窓に
「洋服調達」の字
写真8・繁華街が稲穂に移る
大正7年に従業員17人の
大黒屋デパート開業


◆ケジメの年
 吉次郎にとって明治35年はケジメの年だった。独立して5年。小樽駅開業で稲穂地区が開発ブームに沸き、醤油販売は好調そのもの。跡継ぎの喜一郎は庁立中学に合格し、故郷二日市の墓地に両親の墓を建立する。両親の墓を建てることは、成功のシンボルであり、石もて追われた移住者が故郷に飾った錦は親の墓に始まり、さらに金沢別邸・神社造営と続く。
 明治44年金沢城の大手門に近い武家屋敷街の一角を占める木谷邸を買う。あまりの豪壮さに持て余し、地元では手を出す人がいなかったそうだ。金沢別邸購入を巡り、(1)故郷へ錦を飾るのは石川県人の憧れ(2)渡道前に受けた金沢商人のひどい仕打ちへの思い返し(3)余生を真宗のメッカ金沢で念仏三昧に過ごしたいとの法縁 ─ などの理由が挙げられている。
 生まれ故郷での錦に囲まれた16年間の金沢生活から、やはり小樽でと決めたのが大正15年。欲しいという土地会社に買い値の10倍24万円で売って、代金決済が済んで8か月後に大火で焼失する。「なんたる幸運、神の如き予見」と地元新聞が報じた。



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